「さあ、朝の食事を」―ヨハネの福音書21章1〜14節―
・用意されていた朝食(9節)
夜明けの大漁を経験した弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻っていった(8節)。彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。彼らはイエス様との食事のために一晩中働いた。ところが陸地には、食事がすでに用意されていた。イエス様が彼らのために用意していてくださったのである。ここに、私たちの肉体の必要をも心配してくださるイエス様の姿がある。夜通し働いて疲れ切っている彼らを、主は心にかけていてくださったのである。私たちの日々の歩みにもこの主の愛が備えられている。主は私たちをいつくしみ、養ってくださるのである。
・弟子たちの収穫を喜ばれる主(10節)
イエス様は弟子たちに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。主は彼らのために魚とパンを用意しておられた。けれども主は、彼らが捕ってきた魚をも、ともに味わおうとされる。主は彼らの収穫に関心を持ち、その収穫をともに喜ばれるのである。私たちも、福音という網によって収穫された魚である。その私たちに主は関心を持ち、私たちを大きな魚として喜んでくださるのである。ペテロが網を引き上げてみると、網は153匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった(11節)。ペンテコステの日に誕生した教会は、世界中で福音の宣教を行っていく。福音によって救われる人は世界中で数多く起こされていく。福音の網は決して破れることがない。私たちは、この福音を世界に宣教するよう召されている。
・「さあ、朝の食事をしなさい」(12節)
主は、一晩中働いた弟子たちを朝の食事に招かれる。食事への招きは、交わりへの招きである。主は、ご自分のために働く私たちを交わりに招いてくださる。その交わりの中で、主は私たちの疲れを癒やし、私たちを養ってくださるのである。イエス様はパンと魚をご自分で取り、彼らに与えられる(13節)。復活の主は、私たちにも「さあ、朝の食事をしなさい」と呼びかけておられる。主は私たちを朝ごとに、日曜日ごとに、礼拝に招いて私たちと交わりをし、霊的なパンを与えてくださる。その霊的な糧によって、私たちは癒やされ、養われて主の働きに遣わされるのである。
・朝の光の中で
やがて主は、もう一度来られる。その時主は、私たちを死者の中からよみがえらせてくださる。私たちが働いてきた暗い夜は終わるのである。主は朝の光の中で、私たちを食事に招いてくださる。救いの完成を祝う祝宴に、主は私たちを招いてくださるのである。その日、私たちは主とともに喜びの食事をいただく。その日を待ち望みつつ、世界宣教に励み、主に喜ばれる歩みを続けさせていただく決心をしよう。