2024年2月4日(日)礼拝説教要旨

「わたしはあなたを愛している」―イザヤ43 章11~4 節、I ヨハネ4 章99~10 節―

 

1.イザヤ43章の文脈

 イザヤ書43章は、イスラエルの捕囚からの解放という文脈で語られています。イスラエルは、BC538年に帰還するまで、アッシリアやバビロンに侵略され、人々は捕囚に取られていました。しかし、それも究極的には、イスラエルを悔い改めに導き救うための主のご計画の内でした(42:24)。

 イスラエルを捕囚から解放するために主が用いたのは、ペルシャ帝国キュロス大帝でした。彼には、ユダヤ人の支持を得ることでエジプト・エチオピア支配を有利に実現しようという政治的意図がありました。

 4節の有名なみことばは、そのような歴史を前提としています。政治的にも経済的にも軍事的にも、何の価値もない小国イスラエル。しかしこれを救うために、あらゆる面で勝っていた大国エジプトを犠牲にする。人間の目にはあまりにも釣り合わないように見えても、神の目にはイスラエルは、それほどまでしたいかけがえのない存在です(3節)。

 

2.神の愛

 この神の愛が、主イエスの十字架の贖いを通して、私たちにも注がれています。私という取るに足りない存在に対して、神は御子を十字架の上にお見捨てになりました。不釣合いの愛が、神の能動的なご意思によって、成し遂げられました(Iヨハネ4:9-10)。

 この神の愛は、私がどんな人間かとか、何ができるかということとは、驚くほど無関係です。「神は、この世の基が据えられる前から…私たちを選」ばれ(エペ1:4)、愛はその時から既に始まっており、しかもその時に既に私たちを100年(永遠)分愛されたのです。この愛を、私たちはすでに受けた者です。

 

3.愛されている者として生きる

 罪とは、神の御心ではないこと、神の喜ばれないことです。だとするならば、私たちが自分を愛することができなくて落ち込むとき、それは私たちの弱さである以上に、私たちの罪であると言わなければなりません。もし今、愛されることばかりに餓え渇いて、それが得られなくて悲しんでいるとしたら、私たちは全霊をもって悔い改める必要があります。

 私たちは、「キリストの愛が私たちを捕えている」(IIコリント5:14)!と、告白しようではありませんか。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:19)そしてもし愛が分かるなら、私たちには文字通り何でも、出来るのです。