2022年12月25日(日)礼拝説教要旨

「すべての人を照らすまことの光 」

―ヨハネの福音書1章1~ 5、9~14、18 節ー

 

1. 神であられるキリスト (1~5節)

 この世界は、神が「光あれ」と命じられたことばから始まりました(創世1:3)。神は、その御口から発せられることばによって世界の創造も、歴史への介入も、私たちの救いをも、実現されるのです。まさに、神のことばは、神ご自身です(1節)。そして聖書は、神の「ことばは人となっ」た(14節)と語り、 2節で「初めに神とともにおられた」、 3節で「すべてのものは、この方によって造られた」、 4節で「いのちがあった」と語り、主イエスの神性を強調しています。

 私たちを友と呼び、私たちに親しく語りかけ、私たちをかくまい、私たちを導く、私たちの懐かしい、慕わしい主イエスは、その親しみと矛盾することなく 、神であられます。この大いなる方が、クリスマスの夜に、私たちのために、私たちの中で最も小さい者として、生まれてくださいました。

 

2. 光なるキリスト (4~5節、9~13節)

 さらに、キリストは単に神であられただけではなく、いのちの主として人の「光」となられました。罪の中に蠢き、勝ち負けの世界で自惚れたりうなだれたりを繰り返して行き場を失った魂が、まだ神に助けを求める前から、神の方から人のただ中に来てくださいました。

 私たちの本質は、元来神を受け入れません(10 -11節)。だからこそ、 本来 金のゆりかごにでも寝かさ れるべき方が、飼い葉桶に産声を上げてくださったのは、必然だったのです。

 しかし主は、「血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ神によって」(13節)、すなわちその一方的な恵みによって、信じる人々を「神の子ども」として再び生まれさせてくださいました(12節)。

 

3. 神の愛を受け入れよう! (14,18節)

 神を見た者は死ぬと、旧来イスラエル人は恐れていました。ヤコブもモーセもエリヤもそうでした。人の方から神に近づくことはできなかったのです。しかし今や、「父のふところにおられるひとり 子の神」(18節)ご自身の方から、「私たちの間に住まわれ」(14節)、私たちに直接「神を説き明か」(18節)し、語り掛けてくださいます。

 私たちは神を何度も拒んだのに、なぜ神は、こうまで私たちにこだわり、私たちを招き続けておられるのでしょうか。それは神が、私たちを愛しておられるからです。神には何でもお出来になります。しかし、神は私たちを見捨てることが、どうしてもできないのです。この方の愛を、今朝、受け入れようではありませんか!