「ひとりのみどりごが」―イザヤ書9章1~7節―
1. 闇:神を忘れた歩み(1節)
この預言はまず、北イスラエルの滅亡を預言的過去形で伝えています。「ゼブルン」や「ナフタリ」、また「海沿いの道、ヨルダンの川向う、」「ガリラヤ」は、北イスラエルを言い換えた表現です。北イスラエルは北方の強国アッシリアの侵略により「辱めを受け」、イスラエル人は捕囚に取られ、残された人たちもアッシリアの直轄地に編入させられて、民族的な純血性も失われたため、「異邦の民」と揶揄されるまでに成り下がりました。神の民としての在り方をおおよそすべて失った北イスラエルは、まさしく「闇」「死の陰の地」同然でした。
この闇の直接の原因は、北イスラエルが神に依り頼まず、自分の力や戦略に頼ったことでした。イザヤは8:13で、主のみを恐れるように警告されています。私たちはどうでしょうか。本当に主を恐れる歩みを、しているでしょうか。
2. 光:回復の喜び(2~5節)
この暗闇に対して、神は「大きな光を見る」「光が輝く」(2節)という約束を用意しておられました。続く3-5節には、神の救いを喜ぶ民の姿が預言されています。
この部分の引証個所マタイ4章には、主イエスが、まさにゼブルンとナフタリの地方にあるカペナウムに住まわれた、という記録があります。主は、北イスラエルの地を見捨てることなく、かえってそこに住まわれ、そこから弟子を取り、そこから宣教を開始されました。荒廃と敗北の象徴の地が、福音の発信源になった、これこそ大きな光だ!と、聖書は証言するのです。
救われる価値も資格も無かった私を、そうと知ってなお選び、愛し、救ってくださった、主イエスの愛を思い出します。2700年前も、今も、主は変わらない、愛の方です。
3. 光が輝く!:預言の真ん中に立つ私たち(6~7節)
さらに神の励ましは、「主の熱心」によって救い主なる「ひとりのみどりごが…生まれる」という、クリスマスの預言に至ります。確かに成就したクリスマス、しかしすぐさま「その主権」は「とこしえまで」「王国を治める」という、再臨と千年王国の預言が続いています。この再臨の主、王の王には、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という、4つの名前があります。主はこの4つを満たして余りある、素晴らしい方です。
こうまで素晴らしい方が、赤ん坊として来られた。あまりにも惨めな、飼い葉おけの中に、無防備な姿で、来てくださった。神としての在り方の全てを捨てて、私たちのために来てくださった、それが私たちの待ちわびるクリスマスです。
しかし預言はそこで終わっていません。私たちはこの預言の真ん中に立たされている者として、今しも光の衣を帯びて来られる再臨の主をこそ待ちわびて、希望に燃えてこのアドベントを過ごしたいと思います。