「サムソン①:主のなさる不思議」―士師記13章1~25節―
1. 主の使いが現れる(1-14節)
「イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った。そこで主は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。」(1節)そのような中で、ツォルア出身のマノアの不妊の妻のところに主の使いが現れて、「胎内にいるときから神に献げられたナジル人」である男の子を生む(3-5節)と言いました。「彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める」と(5節)。その話を聞いたマノアの願いに応じて、主の使いはもう一度来て、「わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない」と告げました。
マノアの妻の名前は出て来ませんが、主の使いは彼女に宣告し、彼女に教え、彼女に命じました。マノアと彼女の夫婦関係は健全で、また二人には敬虔な信仰を読み取ることができます。しかしここでは主は、あくまで妻に、この知らせをもたらしました。私たちも、主が自分に個人的に何を語られたかということを受け止め、その上でそれを家族で分かち合い、尊び合う関係を築きたいものです。
2. 主への献げもの(15-21節)
マノアが主の使いに料理でもてなしないと願い出ると、主の使いは「それは主に献げなさい」(16節)と言いました。また彼がみ使いに名を尋ねると、「わたしの名は不思議」(18節)と答えました。マノアがささげ物を主に献げると、主の使いは「祭壇の炎の中を上って行」きました(20節)。この一連の出来事を通して、二人は彼が主の使いだと知りました(21節)。
マノアは当初、主の使いを、旅の途中の預言者の一人くらいに考えていたのかもしれません。しかし、それは主の使いでした。主の使いは自らを「不思議」と名乗りました。これは、詩篇139:6でも用いられている言葉です。同詩篇は、「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です」(13節)と綴っています。まさに、命は神の領域。神がいのちの初めから終わりまですべてを知り、握っておられます。
3. サムソンの誕生(22-25節)
こうしてマノアの妻はサムソンを生みました。主は彼を祝福され、「主の霊は…マハネ・ダンで彼を揺り動かし始め」ました(24-25節)。これは、彼に自他ともに認められる霊的覚醒があったことを表しています。
サムソンは、生まれる前から神に選ばれ、召され、祝福されました。しかしこの後の記録をたどるに、彼の歩みは、この神の一方的な愛の選びに応答したとは言い難いものでした。私たちも、世に対して、神に選ばれ、召され、祝福された者です。信仰をもって自らを聖別し、主に喜ばれる歩みを選び取って参りましょう。